中共の広い心?笑わせるな。〜中日新聞社説

「区別論」の心/中日新聞社説

ここまでひどいプロパガンダは初めて見た気がする。昨日、朝日新聞の社説を同人誌だと言ったが、これはまさに質の悪い宣伝文だ。ここまでひどければ、逆に『本国』である中共から取り潰しでもきかねない。
例によって一つずつ見ていこう。

 34年前の1972年9月、日中の国交正常化交渉のため田中角栄首相が北京を訪れた。
巨額の戦時賠償を求められるのではないか。それが一番の気がかりだった。

 周恩来首相は言った。
「賠償というのは結局、何十年にもわたって人民に支払わせることになる。
日本人民にこの苦しみを負わせるのは忍びない。従って賠償は1銭もいただきません」。
この一言で国交回復の扉は開かれた。

まさに、中共の主張の丸写しだ。ここまで露骨でいいものだろうか。日本の新聞が中共側の視点から物事をここまで露骨にいえば、さすがに俺みたいな思想を持たずとも、違和感を憶えるのではなかろうか。
史実を述べると、先に国交を回復していた中華民国がすでに賠償請求の放棄を行なっている。それなのに、中共が賠償を請求するとすれば、国交を開くことは不可能だったであろう。『この一言で国交回復の扉は開かれた。』というのは一つの事実であるが、まるで中共の優しき思いやりのみで放棄したなどと書くのは間違いである。中共には取りたくても取れない環境が出来上がっていたのだ。また、終戦当時も中共は国家としては存在していなかった。支那大陸にあったのは、満州帝国と汪兆銘派の南京政府、そして重慶に逃れた国民党政府のみである。それに、中共は民国の継承国ではない。賠償請求権があったのかすら疑問だ。

 周恩来の決断には「戦争の責任は一握りの軍国主義者にある。日本人民に罪はない。中国人民と同じ被害者だ」という考えが貫かれていた。
国家指導者と民衆をはっきり分ける「区別論」だ。日本軍に家族を奪われた多くの中国国民も区別論で説得し、怨(うら)みをこらえさせたのだった。

周恩来礼賛が続くが、周恩来を引き合いに出すなら、ぜひこの名言も出してほしいものだ。

「(日本の対中ODAに関して)中国には、水を飲むとき井戸を掘った人を忘れない。という諺がある」

今だに、中共国民に対し日本のODAに関する説明は為されていない。この事実から言えることは、中共と今は亡き周恩来を同じとして考えることは間違いだということだ。中共は抗日により生まれ反日を国是に育った国である。歪な発展を遂げた現在、国民に有効なイデオロギー反日しかないのは説明がいらないだろう。
そもそも、この社説の根本的におかしい点は、賠償請求放棄の代わりに得た、ODAについてまったく書かれていないことだ。自分の主張のために事実の中立性を投げ捨てている点は昨日の朝日にも共通する。反日マスゴミはここまで病んでいるのだ。
さて、この社説には、周恩来ら指導部が中共国民を説得したと書いているが、ときは未だ1970年代。開放路線による経済発展にはまだ至っていない時期である。また、文化大革命の頃である。明日の食事に困窮する中共国民が、どれほど日中国交正常化に興味をもっていたのか疑問はつきない。反革命分子の捜索(創作)、吊し上げに全力を尽くしていたのではなかろうか。

それに、この区別論は中共が勝手に言っていることである。何度も言うが、中共先の大戦、特に戦犯に関しては発言権がないのだ。誤解してもらっては困る。

 区別論は今も生きている。
靖国参拝への批判の矛先が、「一握りの軍国主義者」であるA級戦犯の合祀(ごうし)と、「一握りの国家指導者」である首相らの参拝に限られているのが何よりの証しだろう。

まったく笑わせてくれる。またしても、事実を無視してくれた。中日新聞社は、中共国民の半数以上が靖国そのものを問題視しているという調査結果を知らないのであろうか。これに対する朝日の言い訳など開いた口が塞がらなかったものだが、中日は無視を決め込んだか。詳しくは当ブログの以前の記事を見てほしい。後程リンクも貼るつもりである。
こちらが、朝日の記事に関するものです。*1

 たとえ区別論にほかの戦略的意味が込められていたとしても、あの戦争で強いられた犠牲の大きさを考えるとき、そこに中国の人々の抑制された、広い心を思わずにはいられない。

まったくを以て矛盾しほうだいな文章だ。戦略的意味がこめられているなら、そこにある感情は考慮するに値しない。少なくとも、そこにある感情は後ろめたいものなのだ。戦略とは相手より優位に立ち、ことによれば屈伏させるためのものだ。それを知らないからこのような矛盾が起こるのだろうか。いや、おそらく、中共を礼賛したいあまり、前後の文章など気にもならなくなっていたのであろう。一つの主張に基づいて意見を書くことは間違いではない。だが、その意見そのものが誤りであるから、このような事実無視と矛盾で塗り固められたものとなるのだ。

民衆同士の反目だけは避けたいという配慮を感じずにはいられない。

何の関係もない、日本系商店や料理店、日本人留学生が襲われたことをもう忘れてしまったのか。ほんの2年ほど前のことである。領事館に投石などもされた。すべては、中共政府が動員したとしても『民衆』による行いである。

だが、批判にひたすら「心の問題」と答えるのであれば、中国の人々の「心の問題」はどう受けとめるのか。広い心には広い心で報いるべきではないのか。

我が国の主権のかかわるところでまで他国の国民の心を考慮する必要はない。俺は中共の国旗も北朝鮮の国旗も大嫌いであるが、俺に配慮して変えろなどという主張は筋が通らないことを自覚している。こう書けば、彼らの言っていることが、いかにおかしいかがわかるであろう。だが、現在進行形で侵略にさらされているチベットウイグルの人々、弾圧を受けている法輪功の信者を思えば叫ばずにもいられないし、彼ら本人の叫びは比べものにならないくらい悲痛であろう。
それに、中共国民は『広い心』など持ち合わせていないことは前述の通りである。事実を無視した主張は事実を挙げるだけですぐに破綻する。頭を使う必要など、どれほどもない。

 靖国神社では当日、首相に日の丸を振り、「中国や韓国はムカつく」と感情をむき出しにする若者が目立ったという。
こうした姿が、両国の人々のこらえてきた怨みに火をつける恐れは十分ある。

若者が靖国で日の丸を振れば、ムカつくという意思表示になるとは初めて知った。しかし、確かに彼らはムカついていたであろう。中韓の際限と根拠無き、『謝罪と賠償』にはだれもがムカつくものだ。俺の右傾化(笑)を心から心配してくれている祖父母も、中韓の主張はおかしいと言っている。若者だけではない。老若男女がおかしいと感じ、そしてムカついているのだ。今ですら、領事館の窓は割られ、日本人留学生は凶器で頭部を殴られ、商店や料理店に暴徒が乱入するのだ。これ以上、『怨みに火をつけ』ればどうなるのか。すでに向こうがすでに火を点けており、それにおかしいと気付きはじめたのが、現在の日本なのだ、彼らの言う『右傾化』なのだということをいい加減理解すべきではないか。2004年のサッカーアジア杯などもその一例であろう。

首相の「有終の美」は、あってはならぬ「民衆同士の反目」をもたらすかもしれない。

すでに述べたよう、小泉首相靖国参拝より前に行なわれた反日教育によって、『「民衆同士の反目」』はもたらされている。おそらく中日新聞は、中共からこの原因の日本への責任転嫁を支持され、この社説を書いたのであろう。社説というにはあまりにもお粗末であるが。せめて、ブンヤの看板を下ろす潔さくらいは期待したいものだ。



纏まった時間が無いため、いっこうに人民網への反論が出来ていない(と言うか、記事すら未だに読めていない)ですが、こんな記事をこないだ拾っていたので紹介します。

*1:リンクは、当ブログの『靖国そのものに反対が5割の中共。そもそも調査するまでも無いんだよ〜朝日の飛ばし電波記事に屈服w』(平成18年8月3日)に飛びます。なお、記事へのリンクは切れておりますが、記事の一部もしくは全文を引用しております