「君が代」が国歌で何が悪い?〜式典で好き勝手する教員の傲慢

2月1日、東京都教育委員会は「OBJECTION HINOMARU KIMIGAYO」のロゴが入ったトレーナーを、昨年秋に着ていたことを理由に、根津公子さん(都立南大沢学園養護学校教員)を事情聴取した。約50人の支援者が駆けつけ処分前提の事情聴取に抗議した。「君が代解雇につながる処分を許すな」「私たちは歌いたい歌を歌い、着たい服を着る。それは当たり前のこと」と支援者は訴えた。根津さんは今回「職務命令違反」で処分が出されると、卒業式を待たずに解雇される可能性も出てきた。「処分を出すな」の声を広げ、強めよう! (佐々木)

http://www.labornetjp.org/news/2008/0201-02

世の中にはTPOという言葉がある。日本語に直せば「場を弁えろ」となろうか。まさにこの言葉が当てはまる行為が上記のそれである。一般社会に於いては、空気の読めないイタい人、程度の扱いで、そういった視線を甘んじて受けるのも当人の自由である。しかしながらそれが一定の強制力が働く公共の場となると話は別である。果たして、「タバコを吸いたい時にに吸いたい場所で吸う」と禁煙席で吸えばどうなるであろうか。同じく、制服の定められている学校で「着たい服を着る」と私服を着ていけばどうなるであろうか。校則に反し「表現の自由」と嘯く莫迦な学生と同じである。彼らが「信奉」する日本国憲法にでさえ「公共の福祉に反しない」という制限がつく。公務員たる教員が公共の場で法律でさえ定められた国旗国歌を侮辱するなどと云うことは、まさに公共の福祉に反した行為ではないか。
しかしながら彼らは云うのであろう。「君が代」「日の丸」は相応しくない、と。学校で強制するなど他国ではありえない、と。
実際に、これより先、2004年4月8日に『歌いたいときに歌いたい歌を歌う』と主張していた練馬区議会議員(当時)池尻成二氏はこう書いている

 歌いたいときに歌いたい歌を歌うのは、とても楽しい。うまいかどうかは別にして、リズムと音階に乗せて声を出すのは、とても解放的で人間的な行為に思える。しかし、そのぶん、歌いたくない歌を歌わされることの不快さはこの上ない。リズムは弾まない。メロディは死んでいく。言葉は飲み込まれてしまう。
 私は、「君が代」という歌を、歌うことができない。「国歌」と定められていることは知っている。しかし、音楽としての好き嫌いは置くとしても、この歌が平等や「国民主権」を定めた国の「国歌」として相応しくないという私の信条は、ゆずることはできない。

 地方議会の議員としての生活をはじめて間もなく1年になる。議員になると、卒・入学式のご招待を頂く。私は地元の小・中学校の卒・入学式に立て続けに計4回、来賓として出席することになった。保護者の1人として、高校の卒・入学式にも出席した。
 今年の東京の卒・入学式には、異様な空気が漂っていた。都教育委員会が、異常としか言いようのない強行な姿勢で「君が代」を現場に強制してきたからだ。とくに都教委が直接、管轄する都立学校(都立高校や都立の養護学校)では、教職員に「国歌斉唱」を命ずる職務命令が濫発され、この「命令」に従わなかった教員など200名以上に処分が出された。「戒告」処分が中心で、この処分は、重なると懲戒免職につながるものだという。"クビ"を脅しにしての強制、"クビ"をかけての抵抗…。およそ教育とは縁遠い世界、いやそれどころか、およそ「民主主義」や「自由」といったものが存在しない世界が、姿を現した。ほんとうに、グロテスクな世界だ。

 たとえ学校儀式で「国歌斉唱」を行うべきだとしても、あるいはまた、たとえ「君が代」を「国歌」として子どもたちに「指導」することが教師たちの責務とされているとしても、それはあくまで"歌わない自由"を尊重するという前提の上でのことでなければならない。教える、学ぶということは、自由な精神と自主的な理解を前提にして始めて成り立つものだからだ。一人一人の教師がみずからの信条に照らして"歌わない"という選択をしたとき、そうした信条を尊重することこそ、この社会とこの国が大切にしている本質的な価値のひとつを子どもたちに示す大切な教育的な行為であるはずである。
 それなのに、都教委は、乱暴に、むちゃくちゃに、教師たちの"信条"を押しつぶすという挙に出た。愚挙、暴挙だと思う。精神、信条の自由を"瞳のように"大切にしないところでは、教育の本質が失われる。そして、そこから育ってくる次代の国民は、この国の成り立ちを根幹のところで誤解するに違いない。

 卒・入学式では、少なからぬ人が「君が代」を歌わなかった。思慮の浅さを強さと取り違えた、およそ非教育的な都教委と軽薄な都知事を、私は弾劾する。

2004.4.8

練馬区議会議員 池尻成二

http://park17.wakwak.com/~ikesan/siminnnokoe/kenri/tokyouidangai.htm

まずはじめに氏は「君が代」は国歌に相応しくない、と断言している。その理由は『平等や「国民主権」を定めた国の「国歌」として相応しくない』からだそうだ。しかしながら氏は、我が国が立憲君主制をとる国家である事を忘れているのではないか。皇室というのは我々一般国民とは違う立場・地位であらせられるのである。それは日本国憲法上すでに定められており、国歌でのみ「差別」されているわけではない。天皇陛下国家元首として崇め、その下で我々国民が政治の主権を有し国家を運営していく、というのが我が国のとる政体である。それを理解せずして『平等や「国民主権」を定めた国』というのは間違いである。
また氏は

教職員に「国歌斉唱」を命ずる職務命令が濫発され、この「命令」に従わなかった教員など200名以上に処分が出された。「戒告」処分が中心で、この処分は、重なると懲戒免職につながるものだという。"クビ"を脅しにしての強制、"クビ"をかけての抵抗…。およそ教育とは縁遠い世界、いやそれどころか、およそ「民主主義」や「自由」といったものが存在しない世界が、姿を現した。ほんとうに、グロテスクな世界だ。

と云うが、しかし果たして、我が国の様にすべての面で安定した国家で、国旗・国歌に対して『"クビ"をかけての抵抗』する教員のいるような国があるのであろうか。管理人は寡聞にして知らない。もちろん、自由も民主主義もない国で、そういった国に於いて人民に最も近い知識人である教師が命がけで国家に反抗する国はあろう。だが、日本はそのような国からはほど遠い。
更に云うならば、我が国に於いてその「自由」と「民主主義」を保護しているのは他ならぬ日本国政府である。氏は知らないのであろうか。「自由権」などは一般に「消極的権利」として国家に認めてもらい保護される権利であるということを。この、西洋的「自由主義」を保護する日本国政府が消滅し、例えば社会主義を標榜する政府が誕生したとすれば、これら権利は書面上のみのものとなろう。それは前世紀幾多と生まれては消えた社会主義諸国を見ても、未だ存在する近隣二国を見ても容易に理解できることである。
現状の国旗・国歌を否定するということは、その日本政府を否定するということである。管理人は、自身の自由権など諸人権を守るためにも、彼らに対し反対せざるを得ない。国家の象徴たる国旗・国歌に反するということはそれほど重大なことであると彼らは理解しているのであろうか。

そして、上記からも理解できるよう、国民でありながら国歌を斉唱しない「自由」などというものは自由ではないのである。もちろんそれは尊重されるべき信条でもなんでもない。反国家の危険分子・危険思想でしかないのである。これを婉曲に、日本国憲法では「公共の福祉」と云っているまでである。

管理人は先日、自身の卒業式を経たばかりである。式典の中で国歌を歌い、来賓や送辞・答辞を読み上げる生徒らは皆一様に壇上に掲げられた国旗に一礼を行った。そこに『異様な空気』などはひとかけらもなかった。『異様な空気』を作り出しているのは、生徒でも教育委員会でもなく、反国家・反人権の「信条」を抱く危険な教員たちである。


ここまで書いても、「君が代」「日の丸」はアジア・太平洋戦争で大きな役割を果たした侵略の証である、と彼らは云うのであろう。だがそういうのであれば、我々日本国民は日本語を棄てなくてはならない。日本語もまた先の「侵略戦争」で大きな役割を果たした。以前も書いたが、従軍記者を北方南方問わず派遣した諸新聞も須らく消滅しなくてはならない。彼らの大半は未だに社名すら変えていない。逆に云えば、先の戦争で使われなかったものは何なのか。極論すれば日本兵、すなわち日本人こそが「被害者」にとり「象徴」ではないのか。「君が代」「日の丸」にのみ責任をなすろうとする主張など、ご都合主義でしかない。
また、先の大戦ののち、欧米列強は多数の植民地を放棄したが、その後各国は国歌や国旗を変えたか。ユニオンジャックは、星条旗は植民地支配を反省しその姿を変えたか?またそれらの国の国歌は?
ここまで書けば、二次大戦後侵略を繰り返す紅支那五星紅旗に話題を振るまでもなかろう。

彼らを支持する理論など、一片も存在しないのである。






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鬱々日記〜特定アジア3面記事編



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