気になった投書などを纏めて

 今、若者の活字離れが進んでいます。電車に乗って周りを見回してみると、本を手にしている人は数人しかいません。たいていの人はケータイやゲームで遊んでいます。たった数百円で大昔の世界に、そして未来に旅することができるというのに。今は古本屋が結構あるため、安く本を手に入れることができます。なのになぜ活字離れが進むのでしょうか?
たぶん、本よりマンガを好む傾向があるからだと思います。
 僕の友人の海外の人も、電車に乗った時、マンガを読んでいる大人が多くいたことに驚いたと言っていました。彼の国では、大人がマンガを読むことは恥ずかしいと考えているそうです。
 確かにマンガにもいいところがあるとは思いますが、やはり良書を読むことが必要だし、大切だと思います。

活字離れを危惧するのはいいが、他人のことよりも自分のことをまずは案じては如何か。この文章力、管理人が云うのもなんであるが酷すぎる。これは冗談で書いているのかと目を疑う行が、この短い文章に溢れかえっている。まるで小学校の国語の教科書に載っている作文の際の悪例だ。
『たぶん』は「おそらく」などに変えたほうが良い。
『必要だし』は話し言葉であるから『必要であるし』にすべきだ。
だが、なによりも注目すべきは『僕の友人の海外の人』であろう。せめて、「僕の海外の友人」程度は書けなかったのか。良書にはこのような表現はなかろう。きちんと読んで身につけていただきたいものだ。
また、漫画を公共の場で大人が読むのは恥ずかしい、というのはよく耳にする主張であるが、海外の作品の大半が子供向けであるのに対して、日本の作品は大人が読むに耐えられる構成である事がよく反証に挙げられる。それゆえに海外で日本の作品が評価されているのであるが、テンプレを使う前に反論まで目に通しておくべきだろう。


  • 権力の危険性国民は自覚を/朝日新聞10月12日

 主人公の少年がリモコンを操ると、どこでも駆けつけ悪者と戦う。漫画家の
山光輝氏が描いたロボット「鉄人28号」は、私にとって幼い頃のヒーローだった。
 その巨大な力を持つ鉄人28号を「公権力」に、鉄人の動きを制限・管理するリモコンを「憲法」に、リモコンを操る少年を「国民」にたとえ憲法を論じた「異見新言」(6日オピニオン面)を読んだ。「懐かしいなあ」と思うと同時に、憲法に対するこれまでの自分の不十分な理解に気づくことが出来た。
 私は「憲法は、国民が守るべき最高規範」と思っていた。「国は間違ったことをしない。国は国民を守るのが仕事だ」と国に対して全幅の信頼を抱いていた。
 だが、「正義の味方」のはずだった国や公権力が、容易に「悪魔の手先」となってしまうことは、社保庁自治体の職員による年金保険料横領問題などでも明らかである。
 憲法とは、こうした公権力を制限するための道具。憲法を守る義務を負うのは国民ではなくて公権力だ。鉄人のように巨大な力を持った公権力の危険性を、国民は自覚しないといけない。

管理人もこの「異見新言」を読んだが、どうにも腑に落ちなかった。しかし、ながら何が腑に落ちないのかよく分からぬまますごしていた。
だが、この投稿を読んでやっと理解できた。元ネタたる「異見新言」では、一部の不良公務員の犯罪をまるで国家全体が犯した犯罪であるかのように「偽っている」のである。もちろん、一部の不良公務員の犯罪を許すわけではない。しかしながら、それを「鉄人」の罪というのは道理に合わない。その点を誤魔化しているために管理人は消化不良だったのである。
さて、いつも書いてきたことだが、民主主義国家において権力を有しているのは国民だ。そうであるのに、投稿者が云うような「自覚」はまるでフランス革命前夜の参政権のないサンキュロットのようなものだ。このような考え方が、逆に国民に対して政治への無力感を呼び起こすというのは云いすぎであろうか。この投稿者は良かれと思って書いたのかもしれない。だが、結局のところ民主主義の「み」の字も理解していないのである。





 硫黄島”玉砕”の映画で、司令官の辞世の歌「国のため重き務めを果たし得で矢だま尽きはて散るぞ悲しき」の末尾を、大本営が「口惜し」に変えたという字幕を見た。人間なら「死ぬのが悲しい」のは自然なのに、「司令官はくやしいと感じて、死んでも戦おうと思ったのだ」と言いたいのだろう。
 軍人でも命は大切だったはずで、空襲下の私が「生きたい」と思ったのと同じである。これが「散るぞ悲しき」である。
 教科書検定で集団自決に軍の強制を認めようとしないのは、住民がそれを悲しいと思わず、くやしさを抱えつつも大義のために進んで死んだのだと、教壇で教えさせたいからではないか。悲しさを無視して歌まで直す戦中の思想と共通する。特に若い層は検定を人ごとと思わず、将来ありうべき戦争を阻止する気構えを持ってほしい。自らの未来が関係していることを忘れないでほしい。

栗林中将の辞世の句が大本営によって変えられたのは有名な話であるが、これは「悲しき」ではなんとも悲壮的で国民の戦意に悪影響を及ぼすとの判断からはされたもので、今回の検定の話とはわけが違う。しかしながら、このような「悟り」を開いた御仁にこのことを説明しても理解してはくださらないだろう。
全体的に意味が良く通らない文章で、管理人としても扱いにこまるわけではあるが、現在の史実論争として、「集団自決強制」の確たる証拠であった「事実」が揺らいでいるという現状を見ない限り、このような妄想へと駆り立てられるのであろう。「死が悲しい」からといって戦争が阻止できれば、そもそも戦争など存在しないであろうが、投稿者にはそこまで考えがいかないようだ。




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鬱々日記〜特定アジア3面記事編



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