沖縄「集団自決」とダーウィンの「進化論」

ろそろ情報も出尽くしたところであろう、沖縄での「集団自決」教科書騒動の包括をしておきたい。
その前に、簡単に状況を纏めておくのと、前回の更新までに取り上げてこなかった記事を数本貼り付けておきたい。
まずは状況であるが、政府側はほぼ、書き換えを認めたと云っていい。判断はかく教科書会社に委ねられた。少なくない社が書き換え申請を行うと考えられる。一部では文科省がメンツの為に書き換えを受理しないと考える向きもある*1が、管理人はこれはないと考える。ここまで報道機関に叩かれ、また担当大臣や首相までもが書き換えに同意を示したと取れる言動をとっているのだから、ここで官僚側が突っぱねたとして、おこるのはまたしても報道機関の非難の嵐のみだ。事なかれ主義を貫く官庁が波立てるようなことをするはずがない。この「推測」は朝日新聞が自社の望む納得を主張するための方便である。
また、この教科書書き換えに関して「沖縄県子ども会育成連絡協議会」は『中高校生の訴えをつづったはがきを送る運動を展開することを決めた』*2ことや仲井真弘多沖縄県知事『「(集会に※管理人註)15万人、いや、20万人いたかも」』と述べるなどの動きが新たにあった。
どちらの件も、歴史問題が主題である本件にそぐわない。子供たちの意向で歴史が決まるわけでもないし、知事の発言も何かに裏付けられたものではない。以前見た「ウッドストック」のコンサートと「比較して」感じたことをそのまま口にしただけだ。特に、この子供たちの意向を政府に送り検定内容を変えようとする動きは本件の本質を如実に表している。
即ち、史実は一切顧みられないということだ。
子供たちの意向を送るよりも、自分たちの主張を裏付ける証拠を送るほうがよほど誠実に歴史問題たる本件に向き合っているといえる。それを全くせずにこういった情と数字で押し切ろうとする「沖縄側」に誠意など些かも感じられない。

本件を考え、思い出したことがある。
キリスト教圏の一部で今でも行われているダーウィンの「進化論」排除運動だ。
日本でこの件に接した方々の大多数は、馬鹿げた非理性的な行為だと感じただろうが、沖縄の件もこれと同じである。
ダーウィンの進化論を教科書からなくそうと運動している方々は、熱心なキリスト教徒で、聖書に書かれていることがすべてだと信じ、科学的な考証など一切顧みない。
沖縄の本件を支持する方々もこれに同じで、「おじいやおばあの言うこと」が正しいと信じ、歴史考証など一切気にかけない。
どちらも感情的で理性は彼方に追いやられている点で両者は共通する。
日本人は、ダーウィンの件は馬鹿げたこと、と一蹴出来る。同じ思考で沖縄の件も臨みたい。すでに本件の土俵は歴史問題から大きく外れている。
政府側も「沖縄側」も、専門家に任すべきではないか。
しかし専門家に関しても疑問がある。この件が報じられる中、学会などは表立った動きを見せなかった。教科書は学問の入口。それが数や情で形を変えられようとしている中なんの声明も出さなかったのはどういったためか。歴史家に委ねられるべき問題を、これ以上素人たちが数や情で押し切ろうとすることは許されない。学問は数に負けるのか。それでは日本人が進歩したとはとても云い難い。
そもそも、大江健三郎氏が記した「沖縄ノート」に関する史実を論じた裁判から始まったのが教科書の記述書き換えだ。そこまで戻り、もう一度検証するのが筋といえよう。





では今日もいきましょうか。