型連休も終わりつつある。5月1日のメーデーやら5月3日の憲法記念日やら左派が勢いづく大型連休であるが(それ故、4月29日がみどりの日から昭和の日へと変わったのは許せないらしい)、小欄では現行「憲法」を特集してきた。それも今日で終わりにしたいと思う。
さて、3日に書いたように、今日は憲法に関するある程度具体的な反論にうつりたい。
例によって、テキストは【戦争で得たものは憲法だけだ】である。ちなみに、憲法九条に絞って取り上げるため、話が戦争に関する抽象的な話に偏りがちになると思うのだが、それも護憲派の誤解やら曲解やらに反駁するためには仕方がないことであるのでご了承願いたい。
さて、この本はまず、三木睦子の投稿文から始まる。三木睦子とは、あの自民きっての左派、三木武夫の夫人である。三木睦子は同稿の後半に於いて、

我々は戦争をしてはいけない、戦力になるようなものをかつぎ出してはいけない、戦争のための働きをしてはいけない、戦時訓練をしてはいけない。あれもこれも、いけないと思うことがたくさんあります。【戦争はしない、孫子の代まで戦わない】

と、書いている。しかしながら、このような反戦思想が尤も危険であることは云うまでもない。戦争を遠ざけ、それだけを禁忌のように考えることは、結果として戦争への無知を産み、それはどう転がっても悪いようにしかならないのである。現実として国家は存在し、戦争はある種の規制下の下合法とされる。そのような世界の中で、一国だけ、戦争をこのように扱えばどうなるかは分かるであろう。危険に晒されていることすら分からない、生存本能のない生物は生きていくことが出来ない。血の色も、痛覚も、生きるためにあるのである。国家が生きるためには、戦争に対し敏感であらなければならない。そうでなければ生きてはゆけない。三木睦子の論はそれを須らく否定するものである。三木睦子には戦争になった際への想定、政治家・軍人が自身の職務に責任感を持って当たる際に確実に有さねばならない、最悪への想定がまるでない。市井の人間にそれを望むのは酷であろうが、だが、その影響力を問わないにしても、国政を左右することに対して自身の言を呈しているのである。自身の言への責任感は必要不可欠である。戦争が起きた際、どうするつもりなのか。念仏の様に「反戦」を唱えていれば何も起こらない等と、耄碌してしまったたか。尤も、三木睦子に限らず、この手の主張をする人間は大概この「耄碌」を患っているが。『戦時訓練をしてはいけない』との言に責任を持つのであるならば、戦時に統率されない民間人が如何なる目にあおうとも三木睦子はその責任を持てるのか?もてやしないであろう。三木睦子にそのような力も何もあるとは思えない。三木睦子の言は、自身の脳内のみに於いてしか現実味は持ち得ないのである。
さて、小欄の管理人紹介欄の一言ページにはリデルハートの格言、『冷静な平和主義者であろうとするなら、新しい格言に基礎を置くべきである。それは、君が平和を望むなら、戦争を理解せよということだ』を引用してある。長々と書いたが、この一言が三木睦子の限界を如実に物語っている。

続いては、【靖国問題*1】で一躍有名となった、高橋哲哉である。高橋哲哉は【一人の人間として、精神の自由を求める】という文章を同書に寄稿している。同稿内に於いて、高橋は陸自の北部方面隊の幕僚たちが制服で護国神社に参拝していることを強く批判している。

(前略)
写真3――式の開始を待っていると、自衛隊の制服組幹部が列を成して入ってきました。一体、何がはじまるんだろうと圧倒される感じでした。
(中略)
写真6――来賓席のトップに座っている自衛隊制服組の幹部が、次々と「北部方面総監」「第二師団長」などと肩書きで呼ばれて参拝していきます。玉串を拝礼して戻るという場面ですが、政教分離違反の現場だと思いました。間近に見てその生々しさにショックを受けましたが、こういうことが実際にあるということなんですね。

後に述べることになるのだが、自称精神科医香山リカなどは自衛隊の自殺者数は酷く、このような不健全な組織は解散してしかるべきである、と述べているが、高橋哲哉はこの座談会の席にも存在し香山リカの主張に対し否を唱えない。高橋哲哉のこの主張からは、自衛官護国神社の神に武運長久すら祈るな、と云っているに等しいのであるが、自衛官にさっさと死んで来い、としかとれない発言をしつつ、自殺はいけない、そのような組織は解散すべきだ、という主張に無言の肯定を与えるというのは矛盾している。死ねというのか、死ぬなというのか、それすら所々、場合場合によって自身の都合のいいように云い換えるのだ。こんな人間の書いた、宗教関連の本が20万部も売れるというのは日本も大概に末である。ちなみに、政教分離違反、というが、普通の国では日本ほど、特定の行為のみであるが、ここまで厳しく政教分離をトヤカク云うものではない。死後の世界がはっきりしない限り、人間と云うものは少数の特殊な人間を除いて、宗教にすがる。死ねば墓に入るのが当然、と考えている人もいようが、これも立派な宗教行為である。福田元官房長官は自身の諮問会に於いて、靖国無宗教化を訴えていたが、無宗教で如何なる鎮魂・慰霊が可能なのか、管理人はこの話を聞いたときからずっと疑問に思っている。そもそも、鎮魂・慰霊というのは、前提条件として霊を信じるという宗教的な考えが必要なのだが、この時点で無宗教ではいられないのだ。日本人の宗教への無関心は、宗教の最低限の定義をも渦中の人間からすら奪ってしまったようである。千鳥ヶ淵の慰霊祭も、慰霊という時点で立派な宗教行為であるが、それを批判せず、靖国のみを政教分離違反と攻撃する反靖国派の言には一片の説得力もないのである。小泉前首相は、伊勢神宮参拝をして、反靖国派の政教分離批判の盲点を突いたが、同じことが千鳥ヶ淵戦没者慰霊事業に関しても云えるのである。高橋哲哉はただの靖国嫌いであり、それは政教分離とかそういった話ではなく、単なる反日家でしかないのである。

さて、その後のパネルディスカッションを収録した稿に関しても色々といいたいことがある。佐高などは、沖縄で150人で行われた反戦集会を全国紙が取り上げないのはおかしい、とおかしなことを云ったりしてるのであるが、この中で香山リカはもっとおかしいことを云っている。
曰く、

「かわいい」を切り口にして「かわいい護憲」はちょっと違うかな(笑)。この世知辛い世の中を、ますますギスギスさせて強面になることないですよね。世界に誇る「萌え文化」があるわけですから、そのかわいさをますます華やかにしていくためにも戦争はいけないんじゃないかなと思ってます。ちょっと自衛隊はかわいくないと思うので、可愛い自衛隊にするにはどうしたらいいのか(笑)

だそうだ。普段からプチナショナリズムだ、なんだと、「ネット右翼=負け犬」のレッテル張り、ネガティブキャンペーンに忙しい香山リカが「萌え文化」とやらを『世界に誇る』などとはどの口が云うのか。相も変わらず、自分の言に責任など持つつもりもない人たちである。
そして、この言も、一言、莫迦なんかじゃないか、以外に云い様がない。国家・憲法・軍を語る際に国際社会や政治を抜きにするのは不可能である。こんな線から反戦などしよう日には、それこそ政府は国民が完全な愚民となった、と判断し国民軽視は止まらなくなるであろう。政府は国民を見よ、などとサヨクは云うが、自分から莫迦を晒すことを提案し、国民を見よ、はないであろう。このような線からの反戦は、その後の国家の健全性の左右からしても最も危険でありしてはならない。ちなみに、佐高も同じような脳レベルの持ち主らしく、『香山さんの「カワイイ」というのは、すごくいいですね』と褒めている。この男、魯迅を目標としているらしく、仲間褒めはしない、と公言しているのだが、それすら守るつもりはないらしい。同書の最後にある、関係者紹介に於いても甘言はあれど一切の諫言はない。


時間がないゆえに、今日はここでひとまず止めたい。予定と違い。明日までもつれ込んでしまうが、これもまたご容赦願いたいものである。結局、この大型連休後半は憲法尽くしのようだ。

よければこちらにも足を運んでください
鬱々日記〜特定アジア3面記事編



ブログランキング

ブログランキング・カテゴリ

マイプロフィール

ブログランキング・にほんブログ村へ

この記事を気に入ればくりっくしてくださいです・・・
ランキング参戦中。協力していただければ幸いです。


キッズgooはじかれサイト同盟
当ブログは残念ながらキッズgooからは検索できません。

http://ping.blogmura.com/xmlrpc/rj3itsue3ocl

*1:

靖国問題 (ちくま新書)

靖国問題 (ちくま新書)