集団的自衛権と国連外交

まりにも当たり前のことを書くので、大部分の人には読み飛ばして欲しい。
今日扱う記事の中で、BMDに関するものがあり、その中で集団的自衛権の行使につながるから反対(とまでは書いていないがそうとしか読めない)、というものがあった。憲法9条改正問題に関連しても、集団的自衛権の保持についてはこれから、さらなる議論が交わされるであろう。
護憲派と呼ばれる方々は、何が何でも集団的自衛権に反対、という意見の方が非常に多い。米国の戦争に加担する、という短絡的な理由での反対がその大半を占めており、その視野の狭さを管理人は以前から批判してきたのだが、今回は国連外交という視点から述べていきたいと思う。
まず、管理人は盲目的な「国連中心外交」には批判的である。実際に国連には大きな力がなく、日本の命運を大きく揺るがす北朝鮮核武装に関してすら斯様な姿勢である。また、国連の実権を握る国はすなわち安保理常任理事国なのだが、これには紅支那とロシアの二国が名を連ねている。とくに紅支那は明白な反日姿勢を顕にしており、日本に対して有利な国連運営がなされるとは考え辛い。
そのような組織に無批判・無思慮に国民の血税を注ぎ込むことにも管理人は反対である。分担金=議決力とまでは云わないが、それ相応の力は握ってしかるべきだ。しかし、現実にはろくに金も払わない紅支那やロシアが常任理事国の座にあり韓国が国連事務総長を輩出する*1。ちなみに、韓国はパン氏が国連事務総長に決定したのち、滞納していた分担金を支払った。更に財政面を掘り下げると、その半分を米日独(分担割合順)で賄っている。そのうちの二国、日独は国連の「敵国条項」に該当する国家だ。もはや国連は発足時とは大きく様変わりしているにも拘らず、実際にはなされるべき改革が滞っている。
我が国の(特に左派)「評論家」たちは上記のことを、知ってか知らずか、全く批判しない。我が国が国連で負担にそぐわない不利な立場にあるにも拘らず、「国連中心外交を続けろ」と云い、その一方で常任理事国入りには反対する。
その理由の一つに、「我が国は集団的自衛権を有さない」というものがある。一部新聞などは「常任理事国入りはいいが、その際は集団的自衛権を有さない、と釘を刺しておけ」とまで書く。
これは全くの無知・恥知らずの云い分だ。
そもそも、国連発足の目的は集団安全保障、すなわち集団的自衛にある。国連憲章第一条を引用しよう。

第1条

 国際連合の目的は、次のとおりである。

    1. 国際の平和及び安全を維持すること。そのために、平和に対する脅威の防止及び除去と侵略行為その他の平和の破壊の鎮圧とのため有効な集団的措置をとること並びに平和を破壊するに至る虞のある国際的の紛争又は事態の調整または解決を平和的手段によって且つ正義及び国際法の原則に従って実現すること。

(以下略)

http://www.unic.or.jp/know/kensyo.htm

これまた常識ではあるが、こういった条文は数の若い方が拘束力が強い。例えば、第一条と第五十条が矛盾していた場合、第五十条は無効とされる。すなわち、国連という組織は、まず集団安全保障、すなわち集団的自衛を最優先とする組織なのである。
このような組織に入っておきながら、集団的自衛権がないなどと云うのは、国連が如何なる組織か全くわかっていないことを晒すのと同義である。国連に加盟した時点で集団的自衛権は保持する方向で議論がすすめられなければならなかったのだが、我が国ではこの義務を怠った。それどころか、今日でさえ、国連憲章第一条すら読まずに「評論家」顔をしているノータリンが幅をきかしている。
こういった意味では、民主党の小沢代表がアフガンに陸兵を送るといったのは正しいのだ。ただ、日本にも派遣するか否かの選択権があり、国益と照らし合わせて管理人は反対したまでだ。集団安全保障の観点から国軍を派遣するという政治的判断は国連憲章を判断の根拠とすれば全く正しい。
国連中心外交を続けたければ、一刻も早く集団的自衛権を保持すべきだ。
憲法9条を世界がうらやんでいる」などという、一部の外国人の言質を振りかざして声高に叫ぶ集団がいるが、国連の場では集団的自衛権を持たない日本は場違いな存在のである。
もちろん、国連にいるのだから集団的自衛権を保持せよ、などと主張しているわけではない。管理人は、国益の観点から自発的に保持しなければならないと考えている。ただ、国連中心外交を唱えながら他方で集団的自衛権反対と云う様な無知な人間は嗤われて然るべきだ、と云っているまでである。




では今日もいきましょうか

*1:尤も、国連事務総長発展途上国から出すのが慣例であり国連分担金を絡めて論じても致し方ないかもしれない