す側と殺される側という「仲間わけ」の基準がある。特に【週刊金曜日】系のアナーキストが好んで使っているように見受けられる。云い出したのは本多勝一であっただろうか。彼の著書に確か【殺される側の理論*1】なるものがあった。これを気に入ったのか佐高信などけっこうな頻度で自著や講演会に於いて用いているはずだ。佐高信藤沢周平が好きなのは、「殺される側」の視点で小説を書いているからであり、織田信長が嫌いなのは「殺す側」だからだと良く云っている。それはもう、これ、前も同じ相手に向かって云ってなかった?と思わせるくらいに。
しかし、この「住み分け」。戦国時代ならばそれなりに適応されるであろうが民主主義国家である現代日本ではとてもではないが通用するような代物ではない。もっとも、戦国時代、織田信長の話に限定しても、あまり相応しい表現ではないが。なぜかと云うと、佐高は、織田信長が叡山を焼き討ちし女子供まで虐殺したから「殺す側」だと規定しているのだが、そもそも当時の叡山自体、僧が武装し権勢をふるっていた、つまり「殺す側」であったのだ。佐高は叡山を「殺される側」と規定しているがそれは正しくないのである。まぁ、経済を専門とする(らしい)佐高にこの辺の知識(云うまでもないが、高校日本史レベル。ちなみに佐高は昔高校教師であった)を求めるのは酷かも知れない。閑話休題
現代日本の話に戻そう。民主主義国家に於いて、当然ながら主権者は国民である。それは佐高らが日々声高に主張していることだ。つまり為政者は国民一人ひとりということである。ということはだ。現代日本に於いて、国民は「殺す側」なのである。
ここで、国民が「殺される側」であると仮定しよう。
「殺される側」とは即ち、自分の意思に於いて死ねない、自分の人生を自分で選択できない立場の人間を云う。自分の人生に無責任な人間をいうのだ。戦国時代に於いてこれは比較的に仕方ないことである。日々の戦乱に於いて農民に主導権はない。才覚一つで昇れる時代でもあったが、やはり、農民は教養と云ったものを身につけられるような時代ではなく、夢物語のようなものであった。
これを現代に持ってくることはできない。国民は参政権を有している。それに伴う国政への責任も負っている。国民は等しく「殺す側」であるのだ。
このことから目を逸らさせ、現在政権にあるものたちだけが「殺す側」で国民は虐げられる「殺される側」というのは時代錯誤も甚だしい。ボルシェビキにでもなったつもりであろうか。そうやって国民を煽動すれば左翼革命でも起きるとでも信じているのであろう。だが、この煽動は国民に政治への責任感を失わせるという多大な害悪を含有している。尤も、「紅い貴族」の独裁政治がデフォである社会主義国家に於いて国民の政治への無責任は好都合であるから、佐高らにとってはいいこと尽くしなのかもしれない。
だが、共産主義社会主義は前世紀とともに終焉を迎えたのは全世界が知るところである。また、国民の政治への無責任もまた民主主義国家に於いては毒でしかない。真っ当な世界・国家を望むものにとってこの区分は「百害あって一利なし」でしかないのである。

昨日、国民投票法案が参院に於いて可決され法案は成立した。
朝日新聞を代表とするサヨク言論は、国民の合意が〜と云々しているが、本多勝一などの煽動によって国民の政治への無責任が増大された点は否めず、周知の通り本多勝一は朝日出身である。自身で蒔いた種を安部政権攻撃に使うとはなんとも汚らしい。また、このなりふり構わぬ姿勢は、自身らの護憲主張が、日々発行される大新聞をしても広まぬことへの焦りなのであろう。だが、広まらないのも当たり前である。
人は無責任な言論など信用しない。自身らを「殺される側」と規定し無責任を自ら宣言するような新聞社やその仲間を誰が信用するであろうか。
我々の主張が受け入れられぬならば「殺」してでも政権を獲る。
この程度の覚悟もない人間が叫んでも人の心には届かぬのである。


では今日もいきましょうか。