高文研、「未来をつくる歴史」の嘘〜過去を創ってる教科書もどきはこれですか?

今日は、日清戦争前後に関して。

朝鮮政府の要請により清国が出兵すると、日本も待っていたかのように軍隊を送りました。

*1

鎮圧に手を焼いた朝鮮政府は、6月初め、緊急に清朝の政府に対して援軍を養成しました。以前から戦争を準備していた日本は、この気に乗じて朝鮮に軍隊を送り、清国軍との衝突を引き起こし、清国の勢力を追い出して朝鮮を支配しようと考えました。
このような意図があったので、朝鮮の情勢が落ち着いた後も日本軍は撤退するどころか、逆に7月23日早朝、朝鮮王宮に攻め込んで占領し、国王・高宗と閔妃を拘禁しました。日本は新しく構成された親日政府に、朝鮮の“自主独立”を宣布して中国から離脱するように脅迫し、中国と朝鮮の間でそれまで結んでいた条約を破棄することを宣言させました。

*2
天津条約といった概念がまったくありません。
この「教科書」で学んだ生徒は日本が不法に朝鮮へと出兵したように誤って理解するでしょう。
また、『朝鮮を支配しようと考えた』と言う記述も誤りでしょう。そういった意図があったなら、かのような宣戦布告は行われませんし、下関講和条約第壱条も説明がつきません。
さらに、親日政府に「脅迫」という矛盾・文法上の破綻もあり、まったくをもって理解できません。

7月25日、日本の艦隊は、黄海で清国の軍艦と清国の兵隊を乗せた輸送船を攻撃して、日清戦争の火蓋を切りました。その後、日本の陸軍は平壌を防御する清国軍を攻撃して陸戦も始めました。(以下略)

※また、同ページの日清両軍の進路は日本側は「日本軍の進行線」、清国側は「清国軍の抵抗線」となっている

これに関しては全くの捏造です。以下はウェキペディア・豊島沖海戦からの引用です。

7月25日、豊島沖で日本海軍第1遊撃隊(司令官坪井航三少将、「吉野」「浪速」「秋津島」)は、清国軍艦「済遠」「広乙」と遭遇した。宣戦布告前のため、日本側は国際法に則って表敬のため礼砲の準備をしていた。ところが、午前7時50分に、突如清国の「済遠」が日本側を砲撃してきた。日本海軍第1遊撃隊は直ちに自衛のため応戦する。優勢な日本海軍の応戦の前に「済遠」は逃亡を図る。

日本海軍の「吉野」「浪速」も、直ちに「済遠」を追撃する。その途上、清国軍艦「操江」及び汽船「高陞号」(英国商船旗を掲揚)と遭遇した。「高陞号」は、中立国の英国商船旗を掲揚しながら清国兵約1200名を輸送中であった。そのため、第1遊撃隊司令官の命により「浪速」艦長の東郷平八郎大佐は、「高陞号」に停船を命じ臨検を行う。英国船員を救命ボートで退避させ、清国兵を捕虜として安全を確保した後に、「高陞号」を撃沈する(高陞号事件)。

国際法を犯し、宣戦布告なしに先に攻撃を仕掛けたのは清国側であり、また、「未来をつくる歴史」文章中にある『清国の兵隊を乗せた輸送船』も所謂高陞号事件の高陞号でしょうから、もしこの輸送船に関して書くのならば、この輸送船が国際法違反の存在であったことを明記するべきでしょう。

また、

その後、日本の陸軍は平壌を防御する清国軍を攻撃して陸戦も始めました。

も誤りであり、日清戦争の最初の陸戦は「成歓作戦・牙山作戦」でした。以下はウェキペディア・成歓作戦・牙山作戦よりの抜粋です。

6月9日に清国軍が牙城に上陸する。7月23日時点で4165名に達する。7月25日に朝鮮政府から大鳥圭介公使に対して、牙山の清国軍撃退が要請される。7月26日に第9歩兵旅団(旅団長大島義昌少将)にその旨が伝達される。7月29日に日本軍は牙城に篭る清国兵を攻撃する。午前2時に、清国兵の襲撃により松崎直臣陸軍歩兵大尉ほかが戦死する(日本側初の戦死者)。午前7時に日本第9旅団は成歓の敵陣地を制圧する。

両作戦の日本側の死傷者は82名なの対して、清国兵は500名以上の死傷者を出し、武器等を放棄して平壌まで逃亡する。

なお安城渡の戦闘で第21連隊の木口小平二等卒は死んでもラッパを離さずに吹き続けたという逸話が残る。

この攻撃は朝鮮政府に要請されたものであり、この敗走を受け、日本軍は平壌へと兵をすすめたのです。また、このときすでに豊島沖海戦は行われていましたから、実質上日清両国は戦闘状態でもありました。
なお、『平壌を防御する清国軍』という記述も誤りです。清国軍に平壌を守備する義務などなく、ただ、日本軍の攻撃を受け敗走し、その結果平壌に籠城しただけですから。
これは、日清両軍の進路が日本側は「日本軍の進行線」、清国側は「清国軍の抵抗線」と表記されているのと同じく、妙な主観の入った危険な記述方法と言えるでしょう。

政府内の開化派官僚は、この機会に権力を奪いました。彼らは農民の要求を一部受け入れ、身分制度科挙制度を廃止し、徴税制度を改革するなど、さまざまな近代的改革を推進しました(甲午改革)。しかし日本の干渉がひどくなり、これらの改革はまともに実行されませんでした。

*3
朝鮮の近代化は日本が最も望んだものです。日本の干渉とはいったいどういうものなのでしょうか。これでは、日本が朝鮮の近代化を望んでいなかったようにしか受け取れません。この「教科書」もどきには甲申事変に関しての記述もなかったはずですから、余計、生徒に誤った当時の極東情勢を植えつけることになります。
なお、以下がウェキペディア・甲午改革の項です。

日清両国とも既に閔氏政権の要請に応じて軍を派遣していたが、「全州和約」を理由に閔氏は両国に撤退を要求した。しかし、日本は戦争に向けた準備を続け、1894年8月1日、清に宣戦布告した。

前後して朝鮮国内でも閔氏政権を倒し、大院君を擁立し、「内政改革」のために金弘集を中心とする親日政権を打ち立てていた。金弘集政権は日本にとっては傀儡政権であったが、金弘集は必ずしも日本の傀儡ではなかった。金弘集が政権に就いたのは、長年構想してきた改革案を実行に移したかったからだと言われている。実際、地税銭納化は既に民衆が要求し、開化派の案でもあった。

金弘集の下で行われた改革を甲午改革という。

しかし、この改革で最も利益を得たのは、日本であった。その為に民衆は甲午改革に反発することになる。

朝鮮政府は、1897年に国号を「大韓帝国」に変え、自主的な改革を推進しました。大韓帝国政府は各種の学校を建て、軍隊を養成し、商工業を振興させ、また全国にわたり土地所有権を確認して証書を発行しました。
民間でも社会改革を要求する声が高まりました。1896年、開化派の官僚と知識人たちは独立協会をつくって独立門を建て、『独立新聞』を発行しました。

*4

日本は1894‐95の日清戦争で清国を破るとともに蜂起した朝鮮の農民軍を鎮圧し、朝鮮への支配力を強めた。それに対し、朝鮮には真の独立と改革を求める独立協会運動が起こり、独立門を建てたり、『独立新聞』を発行したりした。写真は独立門。

*5
これに関しては笑いが止まりません。
韓国国定教科書の誤りがそのまま記述されています。日本からも執筆者が出ているようですが、このような誤りくらい正してあげればどうですか、と云いたくなりますね。
この、独立門。正しくは大清帝国*6からの独立を祝ってのものです。つまりは、日清戦争の恩恵のもと建てられたものなのです。*7決して、日本から独立しよう、との決意の元建てられたものではありません。そもそも、日本の影響力が強まる中、こんなもの建てたら、「彼らの頭の中の日帝」はすぐに取り壊し責任者を拷問にかけ、銃殺するんじゃないでしょうか?
嗚呼、ご都合主義万歳!
以下は、ウェキペディア・独立門の記述です。

独立門(どくりつもん)は、ソウル特別市西大門区ヒョンジョドン101番地の独立公園内にある門。1896年11月21日定礎、1897年11月20日完成。

高さ14.28m、幅11.48m。約1,850個の御影石から作られている。フランスパリの凱旋門を模して作られた。史跡第32号(1963年1月21日指定)。1979年に整備事業により本来の位置から北西に70m移動された。

日清戦争により日本が清に勝利し、下関条約にて清の冊封体制からの李氏朝鮮の独立を認めさせた。これにより李氏朝鮮は清の支配から解放され、自主独立国家として歩みだすことになり、その記念として清への服属の象徴の一つであった迎恩門を壊し、そのすぐ隣に建設された。建設には、朝鮮の開化派の独立協会が中心となり、募金を募り建てている。

現在の韓国では「日本からの独立」を記念する門であるとの誤解されがちだが「清の冊封体制からの独立」が正しい。



よければこちらにも足を運んでください
鬱々日記〜特定アジア3面記事編


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*1:36ページより

*2:26ページより

*3:36ページ

*4:37ページより

*5:巻頭グラビア〜写真でたどる3国の近現代史③ページより

*6:と云うより支那帝国

*7:大韓帝国建国が日清戦争の結果であることも触れられていませんが。