核と戦争について考えてみた

今日はほんの少しだけ、真面目な話を。本当は昨日書かなきゃならんネタだったんですね。はい、核の話です。と言うか、たぶん戦争の話になると思う。最終兵器彼女を読んだからかな(笑)


昨日は所謂、原爆の日でした。61年前の昨日、アメリカ合衆国ソ連を牽制し戦後の主導権を握るために広島に原爆を落としました。人類としてあらがいようのない、新しい兵器を使いたいという、まさに無邪気な好奇心のため、や戦争の早期集結のため、などさまざまな主張がなされていますが、基本的には一番最初に言った、戦後を見越した戦略的な一手だったのでしょう。戦争中ですから、その戦略的な一手そのものを責めるわけにはいけません。また、日頃から自称『平和団体』などが被害などをもとに主張する非人道的な行為だというものも、史上初めて原爆が投下されたわけですから、数値だけでは計り切れるものでもなく的外れと言わざるをえません。

では、なにが問題なのか。それは、原爆が確実に一般市民を狙った、国際法違反の行為であるということです。皇軍軍人には戦後、所謂BC級戦犯として一般市民殺害という国際法違反の罪で処刑された人がたくさんいます。その中には冤罪や死刑に値しない微罪の人もいましたが、敗戦国であるがために粛粛と受け入れざるをえませんでした。ですが、今大戦最大のBC級戦争犯罪はこの原爆投下と都市空襲です。詳細は割愛しますが、戦後の東京裁判でも弁護人のブレイクニー氏はこの点を鋭く指摘しましたが、ウェッブ裁判長はこれを却下しました。

現在、核兵器廃絶を主張することは一点の隙もなく正しいことだといわれています。俺としても、一人の日本人として二度と核の惨劇が起こらないことを祈るばかりです。
しかし、現実として、人間とは愚かしいものであることは否定できません。
戦後、核の威力を知った人類は核戦争回避に尽力し続けました。やはり、核の傘により世界の均衡が守られている現実は無視できません。身近な例を挙げますと、台湾海峡の軍事的衝突は米中が核保有国であるためにこれまで回避されており、これからもなかなか戦端は開かれないと見ることが可能です。もし、核または核に等しい抑止兵力がなければ、軍事力を増強した中共はなんの躊躇いもなく台湾海峡を渡るでしょう。ローマのカエサルルビコン川を渡るよりも容易くその一歩を踏み出したはずです。
ここまで、核擁護の発言をしてはきましたが、ですが、核抑止力は言ってみればチキンレースみたいなもので使ってしまえばあっけなくその均衡は崩れます。使わないからこそ抑止力としてあり続けるのです。ですから、核保有国同士が全面戦争になっても勝敗が完全に見えてきた場合のみしか使われないだろうと思うのです。敗北が確定したとき、敗戦国はなんの躊躇もなく核を行使するでしょう。核による抑止力は、相手も馬鹿ではないから使わないだろう、というはかない認識により崩れさり、結果核行使に導くだけです。
やっぱりなにが言いたいかわからなくなってきましたが、核の廃絶は必要でしょう。
それに、今回の広島市長の声明にはもりこまれていませんでしたが、北のようなつぶれかけの小国が核をもつことこそ最も危険なことです。それらの国は前述の敗戦が確定した国ですから、核の使用に歯止めはかかりません。自国に可能性があるからこそ相互の抑止力となる核は、つぶれかけの小国には嚇しのカードであり道連れの兵器なのです。

また、なにがなんだかな感じになってきました。核の話は少し置いときまして、こんな文章を打っていると、やはり戦争は不可避なんだなと感じてしまいます。いくら考えてもそうとしか思えないのです。今朝、朝日に『戦争は悲惨だから平和教育を〜〜』なる趣旨の投書が載っていました。しかし、戦争が悲惨であることなど知らない人はいません。まるで、改憲派は戦争の悲惨さを知らず好戦的な人としてマスゴミなどに言われますが、むしろ、悲惨であることを知っているから、平和の尊さを、平和の唯一の守り方を知っているからこそ、改憲を推し進めるのです。今の憲法どおりにことを進めるならば、日本は交戦権すらありませんから、侵略されるがままでしょう。それを防ぐための改憲なのです。繰り返しますが、人類は戦争をなくせません。それは果たしておろかなことなのか。先に愚かといっておきながら、今思うと本当にそれが愚かなのかすらわかりません。愚かなんでしょうが、仕方がないことです。最終兵器彼女のなかでちせのメンテナンス係のおじさんの口癖でもありまし
た。

『誰も悪くはない。仕方なかったんだ』

なにが言いたいんでしょうか俺は(笑)
全然はじめの趣旨と違うし、言っていることも普段と変わらないですが、この辺で纏めさせていただきます。
人間はおそらく、自国の、自分のまわりの平和すら保つことは出来ないでしょう。それでも、平和でありたいと願うならば、どうすれば平和であり続けられるか。これまでの人間同士の国家間の平和を維持できるか。愛する人を守り抜けるか。それを考えるのが平和教育なのだと思うのです。今までのように、戦争は悲惨だと唱えても仕方ありません。中東では悲惨なのを覚悟し踏み越えて、自民族の、自国の平和のために今日も戦い続けています。彼らは彼らの平和のために銃をとり、戦車に乗り込み、ロケットランチャーを構え、迫撃砲をうちこみ、空爆を敢行し、自爆テロに踏み切るのです。戦争をしているものに対し、悲惨さを訴えることなど何の意味も持ちません。彼らは悲惨さを乗り越えた向こうに自分達の望む平和があると信じて戦っているのですから。今の悲惨さはその時のための、いつになるかわらかない、自分達のためかもしれないしその子孫の時かもしれない、その時のための犠牲なのです。何年後かの受験のために一日勉強に費やすのと違いはありません。
そこに、悲惨だなどといって介入することは無意味で無知蒙昧な行為なのです。さらに言えば、我々日本人は突き詰めれば日本人の平和しか守ることは出来ません。平和とは自己の安寧です。その平和を守るための教育が平和教育なのです。世界の仕組みを教えることが平和教育につながります。なぜ、その地域で紛争が起きているのか。我々の住む国の周辺は如何様な状況なのか。なぜ、このような中日本は平和なのか。誰のおかげなのか。それをはっきりさせるのが平和教育でしょう。
まず、人類は戦争をなくせない。それを自覚することが平和への一歩なのです。反戦運動など、平和とはなんの関係もありません。それは所詮、机上の空論を振り回す自己満足にしかなりえないのです。
核に関しても、廃絶はまず不可能でしょう。核抑止力の欠点も素人なりに考えてみました。しかし、やはり、世界は核抑止力で成り立っています。愚かな人類でも核の惨禍は知っています。だから、信じたいのです。核は抑止力としてあり続けると。日本の核武装も致し方なしと考える者として。こんな大それたことを、感情で語る(騙る?)なんてこれこそ愚かのきわみでしょうけど……


何だか気持ち悪い文章になりました。自分の知能の低さに嫌気がさします

なんとなく、今日は気分が乗らないのでこのへんで。
ホンマにすんません
こちらに少し書いときます





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